「日本における心理学の受容と展開」

要 旨

はじめに
 本論文の目的は、1860年代中期から1940年代中期までの約80年間(ほぼ明治維新期から太平洋戦争終了時)における日本の心理学の受容と展開について、科学史における外部史的アプローチに準拠しつつ叙述することにある。科学史家トマス・クーンは、「知識としての科学の実質に関心を寄せるもの」としての内部史的アプローチに対して、「より大きな文化内部における社会集団としての科学者の活動に関心をもつ」ものとして外部史的アプローチを位置づけており、この意味で本論文は基本的に外部史的アプローチを志向したものである。
 本論文は緒言・結語と4つの部から成っている。以下で各部各章の要旨を述べていく。なお、緒言では、本論文の目的と扱う時期、基本的視角、論文の構成、表記法についての説明を行った。

第T部 日本の心理学−連続と断絶の文脈−
 日本の心理学の知的ルーツを海外の心理学と日本の江戸時代の思想状況に求めてその連続と断絶について考察し、さらに明治初期の学問状況における心理学の扱いについて検討したのが第T部である。
 第1章では「西欧における近代心理学の成立」について扱った。日本に受容された心理学は西欧で19世紀中葉以降に成立した心理学(近代心理学)であり、その心理学は「新」心理学と呼ばれた程それ以前の心理学とは異なっていた。実験に基づく意識の実証的な研究がその心理学の基本であり、そうした心理学を整備したのがドイツのヴントであった。彼はライプツィヒ大学に心理学実験室を設立し(1879)て研究を進め、多くの後進を指導して学位を与え、その弟子たちがそれ以降の心理学の発展を担っていった。
 第2章「江戸〜明治初期における思想・学問状況の中の心理学」では、主として江戸時代の日本における心理学的思想の有無と心理学的思想の受容の過程を検討した。心学などの学問は、科学的であろうとする西欧の心理学とは異なっていた。当時において最も心理学の知識に近づいていたのはオランダ留学で哲学を学んだ西周であった。彼は人間精神の学としての心理学を学びそれを日本に伝えたが、その心理学は近代心理学ではなくそれ以前の心理学であった。もっとも、西が1875(明治8)年という明治初期に「心理学」という題名の本を翻訳出版したことは、心理学に対する人々の認識を高める役割を果たしたと言える。
 第3章「明治前半期〜中期の心理学とそれを支えた状況」では、明治時代以降整備された日本の学校システムにおける心理学の位置について検討した。心理学は同志社英学校などキリスト教系の学校や、東大(及び前身校)など当時の最高学府において1つの科目として教えられ、教師養成を担っていた師範学校でも心理学が教えられていた。ただし、この時期までに日本で伝えられた心理学は近代心理学ではなかったし、何よりも心理学のオリジナルな研究が行われることは無かった。しかし、心理学の知識が普及するにつれて、実証に基づく経験的な心理学(近代心理学)の重要性に関心がもたれ、期待は高まっていた。そこに、海外留学から帰った元良勇次郎が近代心理学を伝えたのである。

第U部 自立した心理学研究者の誕生−元良勇次郎を中心に−
 日本における最初の自立した心理学者は元良勇次郎であり、第U部は彼の生涯とその研究活動を検討することで日本における心理学受容プロセスを記述する。
 第1章では「概説−心理学者・元良勇次郎の生涯と活動−」として、これまで知られていなかった公文書や新聞記事などを使用して彼の生涯について概観した。 
 第2章「留学以前の元良勇次郎」では、杉田姓として出生し、同志社英学校などで学び、教育関連の仕事に従事し、海外留学を行うまでの勇次郎のプロセスを追った。当時の仲間への書簡から、海外で勉強して社会に尽くしたいという大志をあとづけることができた。東京英学校(青山学院の前身)などで教職にあった勇次郎は、教育に関する論文・著書を著しており、最初の著書が『教育新論』という教育に関するものだったことは重視されるべきである。結婚して元良姓となった勇次郎はボストン大学に留学するに至る(1883)。
 第3章では「アメリカ留学時代の元良勇次郎」について日米に残る一次資料を渉猟して検討したものである。特にアメリカのジョンズ・ホプキンズ大学文書資料館では通算3度の調査を行った。元良はボストン大学では「特別学生」という聴講生のような身分であり、ジョンズ・ホプキンズ大学への移籍を模索していた。彼が同大学関係者に宛てた私信によれば、学費負担を最小にして精神物理学を学ぼうとしていたのだが、結果的に博士課程の正規学生となった。彼が同大学で履修した科目を調査したところ、アメリカ心理学の父とも言えるホールのもとで生理学的心理学や精神物理学実験などの心理学関連科目を3年間にわたって受講していた。また、ホールと連名で『アメリカ心理学雑誌』に触感覚に関する論文を掲載した。心理学以外にも哲学史について学んだり、財政学や経済学についても学んでいた。彼の博士論文は「社会生活の原理としての交換(1888)」として結実した。
 第4章は「心理学者の誕生−元良勇次郎の活動−」である。帰国後の元良は当時の知識界に対してアメリカ心理学の状況を伝え、帝国大学(後の東京大学)の講師として精神物理学を担当し(1888)、これが日本における最初の心理学実験の授業となった。さらに元良は独自の心理学的研究を開始し、留学中の成果とあわせて「精神物理学」という論文を発表。1890(明治23)年には帝国大学教授に就任し、同年『心理学』という題目の初めての著作を発表した。彼はその後「心理学・倫理学・論理学」第一講座担当となり(1893)、制度的にも初の心理学担当教授となった。ただし元良は、旧民法をめぐる法典論争や唯物論論争など当時の知識界・哲学界の議論全般にも参加していた。教育者としての元良は自宅で心理学会と称する研究会を開くなど後進を育てることに務めた。彼の指導のもとで文学博士号を得たのは松本亦太郎と福来友吉であり、元良は前者には実験心理学的な部分を、後者には理論心理学的な部分を期待していた。1905(明治38)年に東京帝大文科大学において心理学専修が成立した以降は元良の指導のもとで心理学者が誕生することになった。
 第5章「元良勇次郎と教育・発達・障害領域の関わり」では、従来あまり注目されなかった元良の教育・発達・臨床分野に関する活動を体系的に検討した。元良は、縦書き・横書き文字の読み易さの比較に関する実証研究や(1895)、白内障患者の開眼時の視覚調査などを行った(1896)。日本児童研究会では会長となり(1902)、児童や青年を対象に観察や質問紙調査を自ら行い、「教育と宗教の衝突論争」にも関わった。さらに、教育、臨床に関する実証研究に従事し、実証研究、論点提起、実践研究とが相まった形での障害児教育に取り組んだ(1908)。即ち彼は心理学の概念としての注意に興味をもって研究を続ける中で、当時の「低能」概念を注意の障害として捉え直し、注意練習機を作成して実践的訓練に取り組んだ。元良を実験心理学者、理論心理学者として捉える従来の見方だけではなく、社会とのつながりをもった研究に従事していたことの意味づけを行うことも必要である。
 第6章「元良勇次郎の参禅体験とその余波」では、元良が発表した手記や回想記、論文などを手がかりに、彼が鎌倉の円覚寺において取り組んだ参禅体験(1895)について検討した。元良は1週間にわたって禅に取り組み第一公案を通過する。彼はその際に「何ら表象のない純粋の自我体験」をした。元良は禅体験をある種の精神物理学的実験として捉え、その成果を「東洋哲学における自我」として第5回国際心理学会(1905)で発表することになる。ただし、禅体験は刺激を統制して実験するという意味では精神物理学実験に近いものの、非常に長期間の「実験」が必要となるという欠点があったことは否めない。元良は禅を知行合一として理解しプラグマティズムに近いという考えを発展させた。
 第7章「明治期の帝国大学教授の海外出張と国際会議出席」では、第5回国際心理学会(1905)出席を含む元良の海外出張(1904-1905)について、その出張内容だけではなく、背景や形態について検討した。この時期に出張が敢行されたのは、国内の心理学事情が制度的に一段落ついたからであり、元良自身の理論的関心の高まりも海外の諸学者との交流や国際学会での発表への動因となった。元良の出張形態について公文書を中心に検討したところ、国家の官吏たる帝大教授の海外出張の一般的ルートに従って文書伝達が行われていた。元良の外遊中は日露戦争の時期であり、間接的にではあるが元良に影響を与えていた。学会参加という活動についても様々な社会・制度との関連が見いだされた。
 第8章「元良勇次郎の心理学説」では、物理学の影響が強いとされる元良の心理学理論について検討した。元良の学説は一貫してエネルギー保存則から強い影響を受けており、晩年はオストワルドのエネルギー一元論の影響を受けた。心身問題に関心をもっていた元良は、エネルギーという概念に心身を媒介する役割を与え、ある種のエネルギーにして心の源として「心元」概念を提唱した。
 第9章は「元良の周囲の心理学関連人材と明治後期以後の心理学関連留学」である。帝国大学で元良に学んだ松本亦太郎は、アメリカに留学して博士号を取得し、次いでドイツのヴントのもとで心理学を学んだ。帰国後は高等師範学校(筑波大学の前身)で心理学を講じた。日本で2つ目の心理学関連のポストは教員養成学校に用意されたのである。松本は京都帝国大学に日本最初の心理学講座が設置されるとその教授となり(1906)、研究と後進の育成も行った。元良の死(1912)後に東京帝大教授となる(1913)。なお、元良は私費による任意の留学であったが、松本亦太郎の留学は途中から国費による留学に切り替わった。その後、塚原政次が出発時から国費による留学を果たしたが、彼の専門は「児童心理学」であり、心理学に対する期待が応用的な部分にあったことが分かる。この後は定常的に心理学関連の留学がなされるようになり、その時々の海外心理学の様子が日本に伝えられるようになる。心理学以外の分野の留学に目を向けると、アメリカ留学をした伊沢修二が師範学校(筑波大学の前身)において心理学を重視したこと、ドイツ留学した井上哲次郎が哲学の中で心理学を評価したこと、はいずれも心理学の受容を促進する文脈を形成した。
 付録は「元良勇次郎の論文・記事リスト」である。論文・新聞記事など元良の考えが書かれたものについて収集し、発表媒体や時系列的な推移についても分析を行った。

第V部 大学研究室の整備と学範(ディシプリン)の成立
 第1章は「概説−日本の心理学における制度・学範の展開と海外交流−」であり、日本において研究分野としての心理学が制度化していく過程についてその概略を記述した。制度には、大学や高校などの教育制度の中に心理学が必要とされ関連科目が整備されていくという意味での制度と、この制度のもとで誕生した心理学者たちが自発的に学会などを整備して自立的な行動規範を形成していくという意味の制度がある。時期的には前者が後者に先行し、まず大学で次いで高校で心理学という科目(と専任者のポスト)が設置された。心理学者が大学で生産されてから高校に心理学関連ポストが用意されるまでには時差が存在し、その端境期にあった心理学専修卒業生たちは自分たちの価値を社会に発信する試みを行った。それが心理学通俗講話会の成立であり(1909)、準学術誌『心理研究』の発刊につながった(1912)。その後増加した心理学者たちは統一的な会合を持つ必要性を認識し、日本心理学会の成立をみた(1927)。留学や論文発表など海外との研究交流も盛んになった。
 第2章は「東京帝国大学における心理学実験室の成立と実験機器の整備」であり、心理学にとっての実験の意味、日本における「実験」という語の意味を検討した後、東京帝大における実験研究の展開を検討するために、当時の備品台帳記録をデータベース化しその数量分析を行った。1889(明治22)〜1942(昭和17)年の54年間を主任教授の在任期間によって5つに分け、コレスポンデンス・アナリシス(多変量解析の一種)を用いて各時代の様相を検討したところ、初代元良勇次郎教授時代は注意など認知心理学に近い領域の研究が、2代松本亦太郎教授の時代は身体運動・時間測定の研究が、3代桑田芳蔵教授の時代は音響や光学など、知覚・感覚の研究が、それぞれ盛んに行われていた。
 第3章「初期の東京帝大心理学専修生とその進路・業績」においては、東京帝大において1905(明治38)年に成立した「心理学専修」の初期卒業生を対象にして、大学の心理学専修の人材育成の実態について検討した。最初の2年間に卒業した14名を対象として、同窓会名簿や公文書館所蔵資料などを調査したところ、ほぼ全員が何らかの教育関連職に就いていた。ここで特徴的なのは、桑田・野上という2名が東京帝大、京都帝大の心理学教授に就任したことと、倉橋・大槻という2名が就職待機中に心理学通俗講話会という一般向けの講演会を開催する組織を作ったことである。特に後者については、心理学専修生の誕生が心理学を社会に訴える必要性を強めたものと考察された。また、明治期の心理学専修卒業生全51名の進路調査を行ったところ、高等教育での教育職への就職が約半数を占め、その他も教育職が多く、官僚・民間事務などへの進路は1割ほどであった。
 第4・5章は、東京帝大に続き第3番目、第5番目に心理学研究室を開設した2つの大学における心理学の展開を追った。第4章は「東北帝国大学における心理学の展開」である。研究重視型大学として誕生した東北帝大で心理学研究室が設置されたのは1922(大正11)年であり、その特徴は初代教授・千葉胤成が留学中に購入したヴント文庫や、1925(大正14)年以降現在まで行われている研究会(茶話会)などからうかがえる。授業科目では、柳田国男が講師として民俗学の講義を行ったことや東北帝大医学部教授・丸井清泰が精神分析学の講義をしたことなどは、心理学の内容の広がりという点からも特筆すべきことであった。また、日本で最初の心理学関係欧文誌『Tohoku Psychologica Pholia』を発刊したこと(1933)、『生活と精神の科学叢書』全16巻を刊行したことなどにも研究室の特徴が現れている。実験機器の保存もなされており、現存する実験機器についてそれが使用されて作成された論文(音響知覚)の同定も行った。知覚などの実験研究に加え、民族心理学や性格・知能の研究が積極的に行われていたのが東北帝大心理学研究室の特徴であった。
 第5章「京城帝国大学における心理学の展開」では、日本の植民地だった朝鮮半島に設立された(1926)心理学研究室について展開を追った。文書資料によって当時の講義や研究会の内容について明らかにした他、黒田亮など当時の研究スタッフの研究業績についても検討した。黒田は『京城心理学彙報』を創刊して(1930)情報発信に努めた。さらにこの章では、ソウル大学・車名誉教授が保存していた心理学実験機器や実験実習レポートの調査を行い、それらの照合を行い、心理学教育において必須といえる実験実習の実態について、日本の心理学史研究上では初めて明らかにした。内容は、日本で最初に行われた実習形式の授業の内容とある程度は重なっており、さらに今日行われている同種の実習内容にも通じるものであり、心理学教育の範型がこの時点で形成されていたと考えられる。ただし、こうした本章の知見の意義はまさに同大学が「日本」の大学だったことから生じたことであり、その歴史的・社会的意味づけについては慎重であるべきである。
 第6章は「全体主義による心理学革新運動とその挫折」である。留学中にゲシュタルト心理学を学んだ文部省督学官・小野島右左雄は、全体主義との関わりを前面に押し出しつつ、高校の心理の授業要目をゲシュタルト心理学一色に染めようと図ったが、この計画は年長者たる帝大教授・私大教授たちの反対にあって挫折した(1939)。この事件は、日本の心理学における学説上の主導権争いに見えるが、当時の若い心理学徒たちに一定の閉塞感があり、それを全体主義によって革新しようとしたという意味では、当時の時代的雰囲気と同調していたと言える。

第W部 社会の中の心理学−社会的問題への取り組みの広がり−
 第W部では、日本の心理学が当時の社会問題に関与することで、心理学という学範(ディシプリン)内での展開とは質的に異なる展開を遂げる様相を記述した。
 第1章では「概説−応用心理学の成立と展開−」として、心理学者の応用領域への取り組みや日本応用心理学会成立(1931)までの経緯について検討した。また、1884(明治17)年〜1933(昭和8)年までの日本の応用心理学書のリストをデータベース化し、コレスポンデンス・アナリシス(多変量解析の一種)を用いて各時代の応用領域の著作の変遷を検討したところ、明治期は教育心理学に関する書が多く、昭和期は個性や産業に関する書が多くなっていた。ただし取り組む問題は時代ごとに変化しつつも、量的には拡大していた。
 第2章「実際的研究の機運−現場と心理学−」では、知能・性格・適性・変態(異常・犯罪)・心理療法など様々な現場における心理学の展開を検討した。フランスの心理学者・ビネが考案した知能検査(1905)は早くも4年後には日本に紹介され、その翻案(日本語版の標準化)は心理学者の仕事となった。測定の仕事にも心理学者が関与し児童相談の領域にも心理学者が関与していった。ただし、この時期の心理学の応用は、社会の風潮や現場サイドが個人を管理する技術を要望した結果として始まった面もあり、人々を上から見おろす視線と一致してしまった面があったことには注意を要すると指摘した。
 第3章「変態心理学の消長と念写問題」では、東京帝大助教授として心理学を担当した福来友吉が透視と念写の存在を主張した事件とその顛末について、作家(後に精神科医)中村古峡が創刊した『変態心理』という準学術誌の論文や記事を参照しながら検討した。従来の通説では、福来が東京帝大を休職に追い込まれた時点(1913)で、彼の学説の影響力は無くなったと捉えられていたが、実際にはその後も福来は学者として遇されていた。その後『変態心理』や『心理研究』で行われた論争などによって福来の主張の影響力は省みられなくなったのである。また、『変態心理』や中村古峡とその業績について検討したところ、『変態心理』はフロイトやユングの精神分析の伝達に一定の役割を果たしていたし、中村は精神病について患者の立場に立った治療が重要だとした人物の嚆矢だと言える。『変態心理』や中村に対するこうした評価は従来とは異なる新しい評価である。
 第4章「精神分析の受容・展開と心理学者」では、精神分析という学問が日本に受容され展開した過程を検討した。受容の最初期の精神分析は、精神に関する新しい学説だと受け取られており、心理学者がその紹介に積極的に関与した。ただし、精神病理学としての精神分析の受容には精神医学者の丸井清泰が、精神療法としての精神分析の受容にはその弟子の古沢平作がそれぞれ大きな努力を払っていた。また、文化としての精神分析を受容しつつ心理療法としての価値を認めていたのが大槻憲二であった。戦前の精神分析はこれら全ての人たちが相互に影響しあいながら受容を行っていたと言え、心理学者がそこで果たした役割は小さくなかった。
 第5章「血液型気質相関説の成立を巡って」では、現代日本において「血液型占い」として命脈を保っている血液型と性格の関係に関する学説の起源を検討した。この説の提唱者・古川竹二の履歴や研究について現地調査などを行った。古川は東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)付属高等女学校の入試担当者として公正・公平な選抜方法を整備する必要があると考え、かつ知能検査など知的機能のみの試験ではなく、性格の客観的な試験方法として血液型が使用できるのではないかと考えた。彼の学説には、客観的方法による心理の把握という心理学的背景だけではなく、入試地獄などの社会的背景が存在したことが大きい。彼の学説が『心理学研究』誌上に発表されると(1927)、その妥当性を巡って大きな反響を呼び起こし、300以上の研究が医学、教育、労働、軍隊などで行われたが、結局のところその学説は結果の安定性や論理展開に疑義がもたれて影響力を失った。
 第6章は「優生学と心理学/軍の研究と心理学」である。当時の政府にとって優生学的政策や軍事国家化政策は不可欠のものであり、その遂行には心理学の知識や技術も必要であった。当時の優生学にとって重大な関心事項だった知能の測定には心理学者の技術が必須であった。軍においても、航空機操縦への適性や一般知能、性格検査などに心理学の技術が期待されていたため、軍の機関に雇用される心理学者は増加傾向にあった。また、大陸に戦火が広がり戦争が長期化すると傷痍軍人のリハビリの問題が新しく浮上し、心理学者はその課題に取り組んだ。ただし、戦局が日本に不利になると心理学者の活動は防空偽装や流言の取り締まりなどへとシフトしていった。心理学者の活動は戦略や戦術とは無縁であったが、社会状況に対する反省的視点が殆ど無かったことは考慮すべき点である。
 
おわりに
 結語では、本論文の成果に基づく日本心理学史の叙述を行い、本論文の意義や限界、今後の展開について述べた。最後に、日本の心理学の現状と未来について本論文の到達点に基づいて展望した。心理学に対する期待が存在する状況だからこそ、学問のあり方を反省的に捉える思考が重要であり、心理学史研究がそうした思考に有用であると指摘した。