(2002/02/22)深夜=2/23書き始め

呉さんが「原風景研究」で行った、自分の知り合いと面接する手法はどのような意味を持つのか。

呉さんは、自分がやりたいことをやるためには、自分と近しい人に面接するしかないと思って踏み切ったという。当時(今もそうだが)、研究者と研究される人の関係は、その当初は無であることが想定されている。もともと関係ある人を対象に研究することは、ある種の後ろ暗さを惹起する。それが何故なのか、ということはすぐれて心理学史的な問いであり、subject(今は被験者と訳されているが、subjectを辞書で引いてみましょう)とは何かという問題とも関係する。

今回、面接調査を数回行ったが、それは全て呉さんがアレンジしたものであり、ある種の関係性のネットワークの中で行っていることである。こうした方法への反論はちょっと考えただけでもすぐにいくつか思い起こせるが、今大事なのはそういうことではない。面接に同席した時の雰囲気や内容こそ重視されるべきである。面識も無い人のところに行ってこれだけ聞き出せたかは良く分からない。関係が近い故に隠匿されることもあるだろう。しかし、コストパフォーマンスを冷静に評価したらどうなのだろうか。知らない人の所に行って、殆ど情報は無いけれど、過ちや隠していることはないという場合。知っている人の所に行って、情報は得られたけれど、様々な過誤が含まれている場合。前者が第一種の過誤、後者が第二種の過誤であることは見やすい。現在の心理学シーンでは前者が尊重され、その確率を5%に押さえるべきだという考えがある。そして、それが形骸化しているという批判も強い。

過ちは無い方がいいに決まっている。しかし、第一種の過誤を無くすことはできない。約束事を作ることができるだけで、それがコントロールできるというような印象を与えているとしたら問題であろう。

まずは名称を付けよう。スノーボールメソッドとかスクリーテストとか、質的な方法であっても、名前が付けば、論文に書いてもカッコがつくものである。

因子数の決定はスクリー法で行った。

なんて文章である。

面接の対象を自分と親しい人に限定する方法を、何と呼ぼうか。オソンア法ってのがいいんだけれど、最初からそうもいかないだろう。

命名したからと言って万能な方法になるわけではない。むしろ、この方法の意義と限界を明確にすることにつながるのではないだろうか。

これに関して、茨城大学の伊藤さんがベトナムにおいて「家族同伴のフィールドワーク」という技法を概念化している。この技法は家族のいない人がすぐにできるわけではないものの、研究者単体でピュアな研究をすることが自明であった研究方法とは一線を画するものである。研究者の周りにいる研究対象者とは異なる人が媒体となってフィールドワークが深化する可能性は十分ありえることである。